写真提供 土岐勝信氏

 明治18(1885)年5月22日、東京西神田の岐阜今尾藩(3万石の竹腰家は尾張徳川家の付け家老)邸で、父勘弥と母鐘(しょう)の五男として生まれました。 長男・三男・四男は夭折。 勘弥は勘定方藩士、明治4(1871)年、廃藩置県により、翌年東京へ藩主と共に移住、家令として主家の財政再建に務めました。 その後、輸入商を営み、小日向に邸宅を建てます。 母鐘は病弱のため、勘助は伯母(母の一番上の姉)に育てられます。 幼少の頃は病弱のため銀の匙で粉薬を飲んでいました。 この『銀の匙』が本の題名となり、銀の匙は、現在、静岡市の中 勘助文学記念館に展示されています。
 
 幼少、少年時代のことは『銀の匙』に詳しく記述があり、こんな話があります。 14歳年上の兄金一と勘助は子供の頃から犬猿の仲で、夕方帰り道、兄「何をぐずぐずしている」 勘助「お星様を見てたんです」 兄「ばか星って云え」と怒鳴りつける。 あわれな人よ。 何かの縁あって地獄の道づれとなったこの人を兄さんと呼ぶように、子供の憧憬が空をめぐる冷たい石を「お星さん」と呼ぶのが、そんなに悪いことであったろうかと。
 
 17歳の夏、美しく寂しい友達の別荘(三浦半島)に過ごした時の話です。 2・3日別荘に京都から美しい若奥様(友達の姉)がやって来られた。 ・・ある晩、かなり更けてから月が上がるのを見ながら、花壇に立っていた。 幾千の虫たちが小さな鈴を振り、潮風は畑を越えて海の香と波の音を運ぶ。 ・・ふと気がついたらいつのまにか同じ花壇の中に姉様がたっていた。 ・・私はあたふたとして「月が・・」と云いかけたが、・・姉様は気をきかせて向こうへ行きかけてたのではっとして耳まで赤くなった。 ・・姉様はそのまましずかに足を運び・・「本当にようございますこと」とつくろってくれたので、心から嬉しくありがたく思った。 ・・月夜の花壇に立ち、「鈴を振り」とは鈴虫でしょうか、潮風が・・波の音を運ぶ。 その場に立ってみたいような素晴らしい詩人中 勘助の描写ですね。 初々しい青年の美しい年上女性へのそこはかとない思いが正直に綴られております。 (以下年齢は「数え年」表記です。 岩波書店の「年譜」によりました。)
     

神田柳森神社
中さんが伯母さんに良くおんぶされ行った神社

  黒田小学校縁起
中さんが通った小学校 文京区水道橋

 
 夏目漱石はイギリス留学から帰国。 坊ちゃんの松山中学の先生となり、その後第五高等校(熊本)から明治36(1903)年4月、第一高等校(東京)の講師に就任。 一高の二学年から東大にかけ勘助を教えています。 漱石「私の話をいつも窓の外を見ている学生がいる。 だが、良く聞いているようだ」と。 この学生は勘助のことです。 漱石は子弟の面倒身が良い人で、毎日のように学生が家に押しかけていたので、木曜日にだけの「木曜会」を作りましたが、勘助は距離を置いていました。
 
一高、東大時代の学友は、そうそうたるメンバーです。  藤村操は「人生は不可解なり」と華厳の滝で投身自殺をしました。  山田又吉は若くして亡くなり、岩波・安倍・勘助で遺稿を刊行しました。  江木定男は稼業は江木写真館、農林省の官僚となりますが、35歳で亡くなります。 定男は、関 万世(ませ)〔鏑木清方の築地明石町のモデル〕と結婚、長女妙子を勘助は自分の子のように可愛がります。
 
  安倍能茂は哲学者であり、学習院大学学長を務められました。  小宮豊隆はドイツ文学者で東京音楽学校〔現東京芸術大学〕校長、三四郎のモデルと云われています。  野上豊一郎は英文学者で法政大学総長を務められ、野上弥生子の夫です。  尾崎放哉は自由律俳句の先駆者であり、放浪の俳人でした。  岩波茂雄は岩波書店創業者で勘助の全集を出版、小日向の中邸を買う等物心両面で勘助を支援されました。
 
  萩原井泉水も自由律の俳人で湘南平に「海は満潮か、月は千畳光(かげ)を敷く」の句碑があります。 学友ではありませんが、哲学者『古寺巡礼』の和辻哲郎一家と作家志賀直哉とは、特に親しかった。
 明治35(1902)年、兄金一は東京帝大医学科(東京大学医学部)を卒業し、子爵野村靖の娘末子と結婚しドイツへ留学しました。 ドイツ留学から帰国し、福岡医科大学(現九州大学医学部)の教授に就任。 順風満帆の金一は教授になって数年後の明治42(1909)年野村 靖葬儀に福岡から上京中脳溢血で倒れました。 福岡医科大学辞任。 体が不自由で時には痴呆症状や狂暴になり、末子、勘助に暴力を振るったそうです。 以後家の重荷を末子と勘助が担うことになりました。
 
 勘助はいたたまれず、26歳から36歳頃まで、友人や知人、お寺などに寄宿する放浪生活を送りました。
 
 野村靖は平塚に縁のある人で、長州藩士で吉田松陰門下であり、神奈川県令のとき、政府は土地の所有と売買を認め、地券を発行。 地券をめぐる争いで、平塚でも地主以下6人が惨殺された真土事件がありました。 靖は先祖伝来の土地を守りたい純真な農民の止むを得ぬ行動と理解し、事件後の処理、犯人の救命に奔走し助命しました。 靖はフランス公使、内務、逓信大臣を務めました。 小田原に別荘があり、大きな声で「勘助、勘助」と云い、中 勘助の良き理解者でもありました。 一方、金一夫婦の行く末を按じたのか、勘助によろしく頼むとお願いしていました。
 勘助は、中家を担うなかで、収入を得たい。 それには詩作では難しいので散文を書こうと、明治45(1912)年 28歳の夏から秋にかけて、信州 野尻湖湖畔の石田津右衛門邸の二階で『銀の匙』を書き、漱石に原稿を送りました。 先生の返事が来ないので、尋ねると、 …先生はやや唐突に「ありゃいいよ」 …原稿が汚く読みにくいこと、誤字が多いこと、仮名が多いことへの非難の言葉。〔実は仮名が多いのは、勘助、漢字に好き嫌いがあるから仮名を多く使っていた〕と。 …『銀の匙』のようなものは見たことがない。 綺麗だ、細かい描写、独創がある …先生は「私も変人だが、中は随分変人だな」と『銀の匙』を激賞されました。
 
 大正2(1913)年4月8日から6月4日まで東京朝日新聞に『銀の匙』が連載されます。 無名の青年がいきなり新聞連載ができたのは、ひとえに漱石の力であり、『銀の匙』に対する漱石の評価であったと思います。
 
一方勘助は『夏目先生と私』の中で、こう言っています。
「…この本への批判は先生が答えていたようだ …自分の性格から自分が望むほど先生と親しむことはできなかった。 むしろ疎遠だった。 また、先生の周囲に見かける偶像崇拝者になることもできなかった。 ただ、人間嫌いな私にとって、最も好きな部類に属する人間の一人であった。 そして先生は、私の人間でなく、創作態度、作物(作品)そのものに対して最も同情あり、好意ある人の一人である。」と。 また『しづかな流』のなかで「私は師を持たない…」とあります。 「師を持たぬ」こととは、どういうことか、私は長いこと、疑問に思っておりました。 その問いに明確に答えていただいたのが、岩波文庫の『銀の匙』の和辻哲郎の解説でした。
 
【 作者(中 勘助)は、おのれの眼で見、おのれの心で感じたこと以外に、いかなる人の眼をも借りなかった。 言い換えれば「流行」の思想や物の見方には全然動かされなかった。 この稀有の性格は、この作家の後の作品にも顕著に表れている。 『犬』『提婆達多』『沼のほとり』『菩提樹の陰』『しづかな流』『母の死』などすべてそうである。
 
 作者はおのれの世界以外にはどこへも眼を向けようとしない。 いわんや文壇の動きなど風馬牛である。 だからまたその作品は文壇の動きにつれて古臭くなることもない。 25年前の作たる『銀の匙』は今の文壇にだしても新鮮味を失わないであろう… 】
   ※岩波文庫の『銀の匙』解説 和辻哲郎より
 勘助は長い放浪生活に終止符を打ち、大正9(1920)年36歳 兄金一が発病後痴呆になったことを中心とし、親戚を含め長年にわたる家庭的紛糾が続いたが、勘助が生家の世話を引き受けることになります。
 
 家の財政を立て直すため、小日向の家を岩波茂雄に買って貰い、大正11(1922)年38歳に赤坂表町に家を買って家族を移しました。