勘助の平塚時代は、親しみを込めて「中さん」にします。 中さんの平塚時代の生活は『しづかな流』と『はしばみの詩』で知ることができます。 中さんはことのほか朝夕の散歩が好きで主に平塚海岸一帯をコースにしていました。 また、『しづかな流』は日記体随筆であり、ほぼ年月日が分かります。 一方、『はしばみの詩』は中 勘助文学研究家の鹿児島大学渡辺外喜三郎教授と平塚のお手伝い中島まんさんとの往復書簡集で日々の暮らしが分かりました。
 
 この二冊で昭和初期の平塚海岸の自然と営みを辿ってみました。 中さんが一生に一度建てた家を「百節庵」と呼んだそうです。 中さんは沢山の鳥を「百鳥」(ももどり)と言っています。 「節」は五節句、二十四節気、七十二候、季節の変わり目です。 従って季節が沢山ある良い処だと解釈しております。
 

お手伝い、中さん、タゴ、まんさん

 
 
 中 勘助を知る会の初代会長故尾島政雄(文芸評論家、元中央公論編集次長)は『しづかな流』文学講座の中で、中さんを作家と云うより詩人ではないかと良く話しておりました。 生涯、詩はおよそ665編あり、その内191編が『しづかな流』に収載されており、平塚時代に一番多くの詩を遺しております。
  ※画像は、中邸宅庭内 髙原とよ子氏 写真提供
 
  さあ、大正13(1924)年から昭和7(1932)年の平塚海岸の生活へタイムスリップしましょう! 目を閉じてください。 潮騒のなかに黒松の林が見えて来ましたか?

大千畳敷より平塚方面を望む 昭和十年 提供/大磯町郷土資料館

 そうです、黒松の林のなかに、桃や野菜畑、別荘が点在しておりますね。 杏雲堂平塚病院(明治29年創立)が見えますか? 余談ですが、大磯町郷土資料館では、開設の時、全国から写真絵ハガキを集めました。 確か平塚の絵ハガキも50枚位はありました。 平塚の二宮写真館が制作したものも有りました。 戦前は今のように写真は手軽なものではなかったので、写真絵はがきが流行ったのですね。
 
    相州 平塚海岸通り 大正十年  写真提供/大磯町郷土資料館
 
  中さんの家は、浜岳中学校の東南羽衣通りに面したところにありました。 近隣には別荘の家が多くありました。 花水小学校の土地は、富士紡績の創業者日比平左衛門の別荘があり、戦後遺族から広大な土地を寄付して頂いたものです。 
 
             詩  「名もなき思い」
 
 須賀千軒を除き、平塚海岸一帯が黒松の松林であったことが想像できます。 中さんの詩、短歌、文のなかに松林に関するものが多くあります。 海岸地帯なので防風林として盛んに植えられたと思います。
 
 黒松に松露、赤松に松茸、松露は直径3cm位の球形のキノコで、秋ではなく春にどっさり採れたそうです。 松露は落葉などに隠れているので、飼い犬のタゴはその嗅覚で見つけるのが名人であり、お手伝いのまんさんは、タゴを連れて松露を採りに行ったそうです。 持ち帰ると中さんは「今晩は松露鍋か」と大変喜んだそうです。
 
 明治29(1896)年に発行された『平塚繁盛記』には平塚町新宿「松露問屋 山口竹次郎」の名前があり、明治期には平塚の特産品の一つでありました。 現在、松露は全国的にほとんど採れず、湘南の地では藤沢のお菓子屋さんで「松露最中」に名を遺すのみとなりました。
 
 
 花水川の左岸河口付近の土手には、野生のバラ、ハマエンドウ、ナデシコなどが植生していました。 中さんは散歩の時、目を付けていた防風(ハマボウフウ)を採りに来ました。 坊風はセリ科の植物で海岸に面した砂地に分布し、現在では非常に希少な野草です。 牛蒡を細くした長い根を地中深く伸ばし地表を這うように葉を広げます。 噛むと芹の風味がし、天ぷらにして食べ、また解熱、鎮痛など薬草効果もあります。 中さんも掘り上げるのに大変苦労しています。(平成26年5月に行った中さんの散歩道の時、砂浜で「防風」を見つけてくれた人がいました。)
 ※画像はハマボウフウ(虹ケ浜) 海岸砂地に生える多年草。 若芽は食用
            詩  「海べの野をゆけば」
 
 更科日記に載る唐ケ原ヤマトナデシコは、昭和初期まで花水川畔の小松の群生した所や海浜に群落があったが、のち平塚町費により保護のため移植、戦後も平塚駅前に観光、保存にと残り少ないナデシコを集めて移植したが、いずれも枯死した。 これは自生に最適な条件を無視したためである。   (『平塚市郷土誌事典』より)
            詩  「ほほじろの声」
 
 『しづかな流』のなかではホオジロ、ヒワ、オオルリ、雲雀、千鳥など三十余りの野鳥が登場します。 多くの野鳥が生息できる豊かな自然であったことが分かります。
故浜口平塚博物館長は「勘助は野鳥に対してなみなみならぬ関心を寄せており、野鳥と親しむことは大きな喜びであったようだ」と… なお、この『ほほじろの声』の詩は平塚の家でほほじろの声を聞き、昔信州野尻湖のほとりでほほじろの声を聞いたことを思いだして書かれた詩であり、その詩碑が野尻湖湖畔にあります。  
 
 御用聞きの兄さんが台所に置いて行った子犬は、醜く中さんは仏の心を持って育てるしかないとけなす。 そして名を「田吾作」のタゴとしました。
 その犬は成長するとともに賢くなり、中さんも溺愛するようになり、ケガをした時などは、全身全霊を挙げて看病しました。
 
 タゴは名こそタゴだけど五徳を備えていると。 一徳、臆病で吠える。 番犬の第一の条件を満たしている。 一徳、タゴは人やよその犬を怪我させる憂いはない。 一徳、おとなしく良く云うことを聞く。 一徳、彼ら野ら種ゆえに丈夫。 一徳、見かけは良くないので取られる恐れはない… この話を作画を丸島隆雄氏にお願いし、紙芝居にして頂きました。
 
子供達に、中さんを知って貰うことに、役立てております。 尚、平成27年手作り紙芝居コンクールで特別賞(県立図書館 館長賞)を受賞しております。   ※写真提供 髙原とよ子氏
             詩  「朝 網」
 
 中さんは朝飯のあと海岸に地曳を見に行くのが、習慣になっていました。 浜では三、四町(約四百メートル)おきに地曳があり、浮標の樽の一番近くになったところから見に行き、次から次へと根気よく獲物を見て歩きました。
 山ほどの小鯵、まるまる太ったかます、尺ほどの黒鯛、ほうぼう、蟹、沢山の雑魚が獲れました。
 
「新編相模国風土記」に天保六年頃須賀村「海士船十五、地曳網船十七、押送船五」の記載があり、地曳が盛んに行われていました。 また、古地図によると西海岸では、本宿の人達が地曳を盛んにやっており、本宿から浜に向けての浜道が数本ありました。    ※写真提供 大磯町郷土資料館
            詩  「尼さんかはいや」
 
 鎦栓(りゅうぜん)如来教。 この尼寺は享和二(1802)年鎦栓如来が名古屋に開いた如来教登和山青大悲寺の支部で、明治38(1905)年無明院大拙が篤信の女性月湘を記念して、月湘庵を開きました。 本尊釈迦牟尼仏。 花水海岸菫平の松林の中に閑寂な佇まいを見せる関西風の堂宇です。〔平塚市郷土誌事典より抜粋〕
 
 以前庵主さんからこの寺は檀家寺ではなく、修業寺であるとお聞きしました。 確かに墓域はありません。 また、子供の頃、速歩の托鉢姿の尼さん五、六人をよく見かけました。